ゆっくりとゆるやかな曲線を描いて昨日は今日にスライドする。
普通なら。
今日は絶対的なものをこの朝に感じる。
脳は目覚めているけれども体が完全に動かない。体だけが独立した生き物となって目覚めを拒んでいるかのようでもある。目は確かに開いているけれども90度に回転した窓、しか、ここからは見えない。真っ白な壁を綺麗に切り取った全開の窓。
その窓からは夏のものでもない秋のものでもない、そんな朝の風が入り込む。強くもなく、弱くもなく、必要な分の風。
僕は、夜のうちに窓から部屋に忍び込んで来た外の冷気ですっかり冷えたシーツに包まれている。鼻につく鋭い煙草の脂の匂いに交じって、だらしなく汗に溶けたアルコールの匂いを感じる。目を閉じるとその中でぼんやりと香る、彼女の香水の匂いも感じる。その香りの尾を追って、記憶を辿ってみる。
まず彼女の髪が僕の顔にかかる。汗で貼り付く。僕はそれを拭う。その後に、アルコールを大量に摂取した彼女のからだが吐く熱い息を感じる。その熱気は直観的にこちらの体内にも入り込む。肩越しに、夜が見える。
記憶の中で僕は、僕と彼女を見てる僕になった。
抱き合ってり離れたりを繰り返してるさっき会ったばかりの二人。退屈な景色。
ベッドの上に戻る。
頭上で携帯電話が鳴っている。
鋭角に鋭く、昨日が今日に入り込む。
椅子から転げ落ちたのは覚えてる。音の無いままスローモーションで。嘘みたいに。
客が全くいない知らない暗い小さなバーで、不安定なスツール。転げ落ちるのも無理は無い。先の、ひんやりと冷たい床に大の字に寝転び、宇宙を突き進みタイムワープでも決め込むかのような向こうに見える未来の光を、そこから見える天井の電球に感じる。まぶしい。
そのまま、冷えた床に寝返りを打ち、胎児の様に背中を丸め、眠ってしまうのが一番気持ち良いのはわかった。しかし、光を遮る様に、名前も顔も知らない彼女は、僕の目の前を横切った。横切るかのように僕を覗き込んだ。影になって見えなかったけど僕はおかしくて笑ったのは覚えてる。
けどそのあとの事は断片的にしか覚えていない。
僕は気づいたらさっきの知らない街の知らない夜、彼女の首元に顔を埋めて、冷めた素振りで上目を送ったその先にも暗闇ばかり。ぼんやりと街頭に映された闇。深い井戸のような。いや、井戸のような落ちて行く感じは無い。ずっとずっと平面上に向こうまで広がって包んでくれる闇だ。真っ暗な体育館みたいに。僕たちのところだけぼんやり明るくて、向こうはずっとずっと続いてるんだ。彼女の香水の香りがした。本当に魅力的な香りだった。彼女の肩に添えた手をその肩から離し、彼女には見えない様に、その闇に向けて手を伸ばしてみると、そのまま今日につながっていた。
「まるで夢の中のことね」と言われたらそれまでかもしれない。
彼女は僕の背中に爪を立てた。そのまま消えない傷になってしまいそうなくらい強く。
窓が見える。白い壁を四角に切り取って。いつもの僕の部屋の僕の窓が見える。窓の外には何もない。本当に真っ白。白すぎて頭が痛む。そしてゆっくりと、外から入り込む光がいつもの光とは違ってる事にぼんやり気づく。
見た事のない景色が外で溶ける。彼女のことは知らないけれど、覚えてないけれど、夢かもしれないけれど、忘れてるだけかもしれないし、忘れようとしたかもしれないし、見てなかっただけなのかもしれないけど。でも、僕の中に、確かに熱く息を吹きかけた彼女がちゃんとこっちに向かって手を振ってる。生活の中で手を振る。もう一人の傍観者の僕はとっくに消えた。
僕は冷たいシーツにくるまったまま、窓を背にする様に寝返りを打った。暗いのを求めて寝返りを打っても光はずっと白いシーツに反射して僕のところにのびてくる。
彼女は彼女で生きてる。
膝を抱えて目をつむりそしてやっと昨日が消える。
記憶は自分で形成するもの。残るものではない。

黒い海。太陽が当たると奇跡みたいなブルー。底はただ黒く、弾けた気泡は底から空へ向かって上昇して行く。息が出来ない。胸に詰まった思いが、言葉にならないみたいだ、窒息しそうだった。
余談。
必要以上に重い鉄のドアを開けると、六畳より少し狭い印象のワンルーム。マンションの一室。入ってすぐ左にはキッチン、とは言えない、小さなただの流しがあり、その横にはスイッチを入れると電熱線が加熱するタイプの簡易コンロ。その上にヤカンと、ビールの空き缶がたくさん転がっている。キッチン、の向かいはトイレが一体となったユニットバス。元々は。というのも、今は、写真を現像するための暗室になってる。酢酸の匂いが気分を苛立たせる。時に落ち着かせる。トイレだけが本来のトイレの役割を機能してる。
部屋に入る前にもう一つ特設のドアがついてる。そのドアを開けると、まず、大きな出窓が目に入る。しかし、その窓からは、まったく光は入らない。なぜなら窓の外、すぐ手が届きそうな距離に、大きな蛇の腹みたいな模様の高速道路の壁が立ちはだかってるためだ。本当に明るく晴れた夏の1日、その1日の昼間の少しの間だけ、光が入る。その光を「奇跡」とみんなは呼んで笑っていた。
今日は雨が降っているから、とても暗い。
出窓の淵に吸い殻が山積みになった灰皿とコカ・コーラの缶が置いてあり、シルエットみたいに浮かんでる。1枚の絵みたいだ。
出窓の次に目に入るのは部屋の4分の1は支配しているであろうドラムセット。そしてそこから扇形に、マーシャル製の、そしてフェンダー製のギターアンプ、そして身長くらいはあるであろうヤマハ製のベースアンプ。壁は黒い防音素材で全て覆われている。おかげで真っ黒な部屋だ。マイクスタンドは4本、タバコのヤニで淀んだ防音材壁に綺麗に立てかけられている。そしてクローゼット。上下2段にわかれたクローゼットは扉が外され、中がむき出しになっている。下段に並べられた小さなカラーボックスにはコード類、マイク、などの小物が無数のエフェクター、そしてフィルムと一緒に乱雑に置かれ、そのままだらしなく棚に置かれたミキサーからは無数のコードが出てる。
上段には小さな冷蔵庫と小さなギターアンプ、そして捨てれずにたまった雑誌、壊れたアコースティックギター、一眼レフのカメラが置いてある。部屋の全ての電源を集結させた大きな機械がある。そのスイッチを入れると、ブーン、と緩やかな音がする。一瞬自分の体にも電気が通ったような錯覚を起こす。ミキサーやアンプ、エアコン、携帯電話の充電器までもが一気に動き出す。目覚めたかのようだ。
後にチリチリと音がする。
目を閉じると、匂いがする。酸味を帯びた湿気、鼻にツンと来る空気。
足は確かにスニーカーの底に張り付いていて、スニーカーのソウルもまたしっかりと絨毯に張り付いている。ジリジリと瞼の裏で無数の小さなイナヅマが放電してる。弾ける。ノイズは弾けては消える。
今にも、そのノイズがアンプからふくれあがって全身の筋肉が切れてしまいそうな程、耳をつんざく彼のギター音が宙を舞いはじめそうだ。たくさんの汗を飛び散らしながらドラムは叩かれ、その工事現場の重機が動く時のような、その部屋ごとひっくり返ってしまいそうなベース音が僕の体を揺らす。はず。
いつ音楽が聞こえて来てもおかしくないこの部屋。
本当に聞こえて来るのは、ノイズ、そして窓の外を通るたくさんのトラックのエンジン音。
「彼が変わったんじゃないよ、君が変わったの。」
と彼女は言った。ちょうど暗室での作業を終え、結んでいた髪をほどきながら僕に近づいて来て、そう言った。彼女の香水の匂いと、酢酸の匂い、そしてタバコのヤニと汗が染み付いた部屋の壁が放つ臭気が混じって、部屋全体に不思議な香りがした。
ドキュメント。
そのままの姿をシャッターで切り取るかのように。
ごまかすかのように、僕は買って来たばかりのコカ・コーラのプルタブをあげ、口に含んだ。彼女はフェンダーのギターアンプの上に座って僕に背を向けた。たぶん、どういう表情を繕ったらいいのかわからなくなったのだろう。
僕は、窓の外を見た。
何も見えなかった。
外なんてもう無くなったのかもしれなかった。
そうか、と僕は言って、またコーラを口に含んだ。
汗がじんわりとTシャツに滲む。背負っているギターケースのベルトが肩に食い込む。
壁にかかった時計は昼の11時を指していた。
僕も彼女もうつむいていた。
「新しい人探せば良いじゃない。」
と彼女は言ったけど僕は彼じゃないとダメなんだと思う、と言った。
全ての輪郭がぼやけてる。
音が聞こえてきそうなのに。
人は通りすぎてく。
ってことを知った。
多分背中の方では窓から光が差し込んでる。
一瞬青く見えた。
例えばこの部屋の闇は照明の暗さのせいじゃない。蛍光灯はパッチリ、だって光りがあれば闇もあるの、と。魔法使いには黒シルクのベール。アールコールー。
ヘッドフォンのインプットプラグが間違って外れ、部屋に大音量で「Lucy in the Sky with Diamonds」が流れる。壁に埋め込まれた巨大なスピーカー。アンニュイなフロアタムが心をくすぐる。ウィスキーコーク片手に、やつが蹴り上げた枕は破れ、羽毛が舞い上がりまるで狂乱の宴。そして「L・S・Dくれ〜!」と無邪気に叫ぶ。あの世界に陶酔した彼女は静かにそっと、でも綺麗に、いなくなれば良いと思う。
君に似た誰かのことはもう追うのはやめた。
僕は良く似た彼と彼女のそんなやりとりをソファに座りながら傍観してる。もう一体何杯目のビールを僕は抱えてるんだろうか。そして今にも目の前でセックスが行われそうなくらい二人は熱く、近い。生臭いほどに恋人関係を楽しんでいる。彼女の方のすらりと腰まで伸びた黒髪が彼の前に触れる。僕は確実に嫉妬してる。ビフィータージンの空ボトルがテーブルで倒れ、斜めの世界で転がる。それは火炎ビンにも見えなくない。拾い上げガラス越しに彼らを見る。二人からすればもう僕はいないも同然だ。音楽とアルコールは体中を駆け巡る。さっきの君の言葉を思い出す。
「あなたの夢に現れる方法を見つけたの、魔法みたいに、だって叶わない恋なんだから、それくらいは許して。」
最初は歌みたいで、冗談かと思ってた。けれどその日から、厳密には、その2、3日前から彼女は、僕の夢に何度も現れていた。毎日ではなかったけれど、夢を見て、そして目が覚めても記憶してる限りの夢には彼女は現れていた。
「彼のことはイイの。放っておいて。」
ある日は、顔の無いまま、ある日は、声のないまま、ある日は、裸で僕を包み込んだ。
ピンク色の冷蔵庫にビールを取りに行くついでにテーブルの上のクリームチーズに、ブルーベリージャムを垂らして食べた。どこかの国。もしくは魔法の国の味がする。目をつむると夢の扉があるんだって。ノックをすると扉が開くらしい。そこに滑り込むと、どうやら僕の夢の中なんだって。自由自在。空を飛ぶことは無いけれど、それは必要がないからだ。
海に行く日もあった。二人でのんびり、車に乗って、朝、まだ陽の上がらない時間をめがけて海に行く夢。水平線が白いで行く様子を車に寄りかかって映画のワンシーンみたいに見てる。それだけの夢。結局海は現れず、なぜか霧だけがそこに残ってる。
ウォッカの蓋を切ると、アルコールの香りが顔全体を覆った。彼女は吐き気がすると笑って転げた。足をバタバタさせた。彼は、ボトルに口を付けると、そのまま後ろに倒れるようにそれを飲んだ。そして倒れた。
スローモーション。遊園地の回転木馬、メリーゴーラウンドは回り続けて、一定のタイミングで、だらしなく両手を下げ、馬にもたれかかる彼女が通り過ぎる。彼女は決まって黒いシルクのドレス。ゆっくり回転は止まり、階段を降りて来た彼女は、降り切るとそのまま地面にすっと消えてった。誰かの葬式を思い出した。あれはテレビドラマのワンシーンだったかな。
彼が倒れる。鈍い音と、ガラスが割れる耳を裂く音が同時に、した。まるで、その音はあの巨大なスピーカーから流れて来てるかのようだった。レコードの針があがって、プツ、プツ、と一定で刻むリズム。彼の頭から流れる黒い血。本当に本当に黒い血が流れた。部屋が真っ白に見えた。いや、それ以外のすべてが白と黒の2色で出来ていることに気づく。髪は黒。僕の体は白だった。モノクロームの現実を僕はただただ見過ごした。
昨日の夢はこうだ。
彼女がそっと裸で扉を開けて入って来る。壁中ブルーに塗られた小さな部屋。ちょうどプールの底みたい。僕はたぶんその部屋で、ベッドに横になっている。視界は低く、最初は彼女の細い足だけが見えて、だんだん、近づいて来るのはわかる。彼女が僕の横で屈んだ瞬間にその正体が彼女だと言うことを本当に認識する。彼女は屈むと性器がむき出しになっている。僕はそんな状態で、そこばかり見てる。正確には、彼女の全体を捉えようとした結果のそれが印象だ。
彼女は無表情のまま、そっと僕にキスをする。そして、立ち上がり、来たときと同じスピードで扉の向こうに去っていく。スローモーション。その後ろ姿はとても哀しそうで、僕は金縛りにあって動けないのか、それとも、ロープで結ばれているのかわからないけれど、起き上がれないままその彼女の後ろ姿を眺めてる。声も出ない。どうやら息もしていない。
それが最後だった。
僕が望んでも彼女は2度と夢に出て来ることは無かった。それは彼女が強く望むことが重要だったから。僕は残念で仕方が無いのを少しずつ感じる。僕は夢の中の彼女に恋をした。
夢以外での彼女は対して魅力的じゃあなかった。
彼女は泣きながら彼の元に駆け寄り、彼の体を起こし揺すった。彼に向かって彼女は聞いたことの無い言葉を発した。彼女はヒドくつらそうだった。別人みたいだった。モノクローム。目を剥いて糸が切れた人形みたいな彼。割れたガラスの破片は白。僕は電話を取り出して救急車を呼んだ。なぜかビールを一口含んで、昔の恋人とのセックスをイメージしてみた。
プツ、プツ、と相手を無くしたレコード針のリズムで人はいなくなる。音が流れればきっとそこは世界の終わり。


