「何もない、が、そこにあるのかも」
と、彼は細い腕を真っ白な雲だらけの空に目一杯伸ばし、言った。雨が降りそうでもある。なんなら大量の灰が雪のように降ってきそうでもある。冬。くりくりの大きな目を見開いて彼は、言うんだ。「何もない、が、そこにあるのかも」と、冗談、できあいのロジック。みたい。
そもそも、あの、道路に捨てられていた大きな冷蔵庫のことが気になって彼はそう言ったのだったのだけれど。
「だって何もない、なんてことがこの世にある?」
黙って下を向いたまま、あからさまに、退屈そうに、爪の甘皮のささくれをいじっている僕に、彼は続ける。
「例えばさ、あれには死体が入ってるんだ。まさか、とおもうだろ?それが犯人の狙いだよ。あんなの誰も開けようなんて思わない。キャベツが入ってるって思う?空っぽだって思う?だって、ただただ捨てられてる粗大ゴミだよ?なんもないよね。」
めくれた甘皮を歯でちぎりながら、ずっとその背中を見ていた。
「匂いはどうだろ。死体が中に入ってたらそーとーにおうよね。でもボクは嗅がなかった。だって近かったけれど、におわなかった。異臭。、、、しなかった。だから開けもしなかったし、あえて嗅ぎもしなかった。なにもないんだよ。イメージもしなかったよ。だから、せめて、ボクがいまこうやって想像してあげてる。なにもないっていうのをイメージしてる。それが要するに『何も無い』があった、って言われたのじゃ仕方ないけれど。」
皮は少しめくれすぎた。ボクと違って彼は温かい体で、たくさん冬の空気を吸い込んでいる。
「宇宙だよ、宇宙。本当に何もないのは宇宙。真空。その中の密度。だからこのホシにはなんだってあるんだ。ない、が、ある、んだから。あの冷蔵庫の中にも何かがある。計り知れないね。」
「宇宙もそうだよ。何も無いってことはない。何もないっていう事実が、ある。計り知れないけどね。」
計り知れないね、の所だけ、喋る時まるでふざけてるように。
「でも後悔してる。開けて確認をしなかった事にね。」
だんだんこの会話に対する煩わしさがすごい。爪なんて無くていいと思った。そのくらい。そして、僕は、まだ表情すらあどけない彼の、まっすぐで儚く、迷いの全く無い横顔に一瞬ハッとして、そして言う。
「知らない良さってないかな?」
「そんなのないよ。知らないで良い事なんてないはずなんだ。」
「でも、そこには責任が付きまとうよ?扉を開けた責任。知った責任だよ。」
「だって責任は背負いたいよ?」
「背負いたい?」
彼の右の眉のキレが少しあがったのを僕は見逃さなかった。けど、それがなんの感情なのかはわからなかった。
「何も知らなければ良いとは思わない?」
「思わない。」
「例外は?」
「ない。」
さっき、来る途中2人で見つけて笑ったあの粗大ゴミ、そう、あの大きな大きな冷蔵庫、は、たぶんだいたい1キロちょっと向こうの通り。あんなに大きな冷蔵庫がまさか、いつもの道ばたにポイと、捨てられてるのなんて見た事無かったから、そりゃ少しは驚いたけど、いや、もしかしたら捨てられてたわけじゃないってくらい、絶妙なサイズ。でも、捨てた、以外の理由は見つからないよ。って、そういうことじゃなくて、なんとなく、中に何が入ってるのかを想像して当て合うゲームが彼と始まって、僕は諦めたかのように、僕は諦めたかのように、何も無いって言ったのだった。
薄い皮を通り越し、厚い皮がめくれると、少しピンクの部分が見えてくる。
「でも、通り過ぎる良さもあるよね。」
と彼が言った。それは別に本心じゃないのはすぐにわかる。彼はそういうことを言っては、後で話をそらす。説明は出来ないけれど。ドラマティックすぎるね。世の中そんなに刺激的なことはないから、
「戻ってみない?まだ時間はあることだし。で、ジャンケンして負けた方が、開けるの。」
「ちょっと待ってよ、君が開けたいんじゃないのか?」
と僕は聞いた。
「うん。中は見たいんだけどね。」
自分の身長くらい大きくて、シルバーの。いや、メタリックの。いやこれの表現の仕方なんてわからないから、目の前に置かれてる状態で、たたずんでみる。絶対に何も入ってないと思う。入ってたとしても、死体だったり、腐った野菜だったり、そういうものでは無いと思ってる。
「ジャンケンする?」
「いや。」
「じゃあ、他に何か…。」
「いや、ボクが開けてみるよ。」
指先に少しだけ冷たさを感じたが気のせいだった。あのメタリックに触れた時のことを思ったら、そんな気になっただけだった。よくある。
彼は満面の、もう満面の笑みを浮かべて、何も言わずにボクのダウンジャケットの袖を強く握った。華奢な体の割に、グイと引き寄せられる。どこにそんな力があるのだろうか。ふざけてないのもわかる。目で。で、グイと、引っ張られたボクの体は、そのまま彼の元まで引き寄せられて、いつの間にか、彼はボクにしがみつくようにして、いた。そして、上目遣いで、ボクを見た。目眩がする程、生々しいくらいの距離。だった。
気づいたら夕方で暗かったってこともあるくらいの時期の話。

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庭にある大きな木から伸びた枝には、以前、彼が結んでくれた太いロープ。そのロープ、私の身長の倍ほどの高さの枝から地上に垂れ、所々、結び目がついており(結び目の所は足が掛けられるように器用に輪っかになっている。彼はその大きな体のわりに器用なのだ)、その結び目を伝ってその木の上に登ることができるようになっていた。
ギシギシと、ロープが木に食い込んでいく音をたて、まず彼が登り、私がそれに続く。私の場合、ギシギシという音が、私の体にロープが食い込んでいく印象に変わる。悪くない。
昼下がりって言葉が似合うキラキラした光が、葉と葉の、枝と枝の、隙間からこぼれてたまに眩しい。時に彼の大きな体が、巨木を仰ぐ私の前に影を作り、太陽の光を完全にシャットアウトする。
大人2人が登っても全くびくともしない程の太い枝を持つ大きくて立派な木。木の上で2人は特に何をするわけでもなく、ただただ静かにそこから見える「景色」を「共有」している。
目を閉じると、家の中で付けっぱなしになっているテレビからの音が聞こえる。
父がつけたのかな?
普段テレビなんて見ないのに。
でも誰の、どんな感じのタレントのどういう時の声かは認識できない。たくさんの人たちが出演しているとても賑やかな番組。騒がしいくらいの笑い声。派手な効果音。時々聞こえる音楽。こっちでは風で木々がそよぐ音。向こうの方で電車や車が走る音。時々、軽快に鳴り響く自転車のベルの音。雲のうねり。秋の気配。
そんな「生活」に溶けた音を聞いていると、今にも母がふと縁側に出て来て、こっちに向かって大きく手を振ってきそうだった。台所で濡らした手を前掛けで拭きながら、明るい声で私達を呼ぶ声が聞こえてきそうだった。
母は彼のことを凄く気に入ってくれてたな。何も考えてないような、いつもそんなことを考えてるかのような、そんなバランスのまま、こうやって木の上から見える景色を見てる。
「見てごらん」
と彼が言うので、私は、彼が落とした目線の先を追った。それはちょうど私の左手のところ、彼の右手のところ。私と彼との間のわずかな隙間。2人が腰をかけている枝から樹液が染みでていた。
500円玉くらいの大きさで、無色透明なその樹液はくぼみに溜まっていた。
「カブトムシとかが集まる樹液かな?」
「どうなんだろうね。初めて見たよ」
彼は人指し指の先にその樹液を付け、そして、舐めた。
「どんな味?」
「甘い。あ、けどちょっと苦いかな。わりと複雑な味だな」
そして笑った。
突然、生温い風が庭に強く吹き込んで、目に埃が入る。右目で見た向こう側ではカーテンが舞う。ふと、
「降りようか」
と彼が言って、彼は地面に飛び降り不安定にぶら下がったロープを左手でがっちりと抑え、私の方に手を伸ばす。私は彼の手を取り、そっとロープを伝って木から降りる。
全身が軋む感じ。
いつもの感じ。
私は彼が煙草を吸うのがとてもイヤだったけれど彼との結婚も悪くないと思った。
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コンクリートの上にこぼしたバニラアイスクリームがみるみるうちに溶ける。太陽は真上。指に付いたクリームをハンカチで拭い、再び足下に目をやるとそこにたくさんの蟻がたかってる。ハンカチを水道ですすぎ、汗ばんだ首元にあてると、一瞬、ヒヤリとし、すぐに生温く肌に滲んだ。しずくがTシャツの襟元に垂れる。
それはさっきまでそこにあったいつかの夏。
いつの間にか大昔の話みたいに色あせる。
スニーカーの底で、蟻の群れを思い切り踏みつける。ジリジリと地面に擦りつける。
東京
記録的な猛暑、にしてはやけに涼しく過ごしやすい昼下がりの公園には誰もいない。大きな木々に覆われ日陰だらけのその小さな公園のベンチの上で横になり、目を閉じると、雲がうねる音、遠くを走る電車や車の音、そして街中に轟く蝉の鳴き声、その隙間に、どこかの家のTVの音、子供たちが騒ぐ声、犬の鳴き声、認識不可能な音、など。時々、学校のチャイムが聞こえる。暗闇の中で耳を澄ましているとどんどん神経が細かくクリアになっていく。体内のミクロとマクロを感じる。大きく息を吸い込むとそれはなおさら。
「大切なのは環境だよ」
と言い訳のようにも聞こえる言葉をそっと吐く。
目を閉じたまま、いつもの遊びを始める。
暗闇の中、1つの大きな風車が見える。風車。風車ってなんだ。厳密には風車の形をした、僕がイメージしているだけの光のシルエットだ。プロペラ部分がゆっくりと優雅に旋回してる。
そんな感じ。
旋回し続ける。
はて、一体なにが?
回っているのは環境だ。
一つたりとも欠けてはいけないのだった。僕の中で決めたルールは、いつからか僕はしっかりと間違えないように守らなければならなくなったのだった。
ゆっくりとゆっくりと優雅に、まわる。そのうち、プロペラが描く軌道の隙間からは、光が差し込み始める。換気扇の隙間からだって光は暗いキッチンに注ぎ込まれる。
暗闇の中に太陽の光をたくさん取り込み、今度は海を想像する。どこの海でも良い。とにかく海面はキラキラと輝いている。もちろん砂浜は真っ白だ。ゴミ一つ落ちていない。そして潮の混じった風に吹かれてさっきまでのソレはゆっくりと、また、まわる。
青い海。いつの間にか、海と空との境界線が無くなり、僕は、空に流される。青い海を仰ぐのだ。
さらに青から僕は連想し、その旋回を地球儀の回転に見立てる。
同じスピードで、ゆっくりと青い丸を動かしてみる。かつて誰かが夢見た月からの視点で。でも僕は地球儀の中にいる。出来る限り頭の中では、ぐるりぐるりとゆっくりゆっくりとまわす。一瞬、ふわりと公園に吹き込んだ温かい風が、妄想と直接繋がった感じがして、そのデティールに快感すら覚える。とろけてしまいそうな旋回に非現実な想いを寄せる。
しかしすぐに近くで鳴ったクラクションの音で僕は意識を取り戻す。照りつける太陽。現実。
はっきりと明確。
どのくらいの時間ベンチの上に横たわっていたのか見当もつかなかった。一瞬だった気もするけれど、随分長い時間、様々な旋回を見詰めていた気がする。主観的、かつ、客観的なスケール。
木を結ぶ金具の部分に肉が食い込んでいて腕から血が出ていた。靴底には少量のクリームと黒土が付着していたけれど、蟻はいなくなってた。
名前を呼ぶ声がする。
さっきクラクションが鳴った方向、つまり公園の入り口の方からだった。公園の入り口には白い小さなワゴンが停まっていて、友人の Y が窓から顔を乗り出し、満面の笑みで手を振りながら僕を呼んでいた。まだちょっと朦朧とした意識と視界。
彼の顔に焦点を絞ると、さっきまで消えてしまっていた音たちが少しずつ鳴り始める。プラスチックがぶつかり合う音に聞こえる。
「猛暑のわりには涼しいね」
と、信号待ちで Y は僕に言った。
確かに車を走らせる度に窓から入り込む風は気持ちよかった。曲名はわからなかったけれど、どこかで聞いたことがあるなんとも涼しげな音楽がステレオから流れて来てるから、それも涼しさを助長した。ラジオのパーソナリティからの紹介は一切無いまま、その曲は軽快に終わり、別の暗く重い曲が流れて、番組は突拍子も無い位明るい内容の CM に移った。
人ごみは一気に去り、信号が変わり、同時に車も走り出す。たくさんの色の車が行き交う。Y はハンドルを器用に捌きながら煙草に火を点けた。煙は生温い風に溶けた。煙草をくわえながら Y が話しかけて来た。
「次、東京来るのは、冬頃?」
「そうだね、冬かな」
「俺は、夏には全く冬を想像できないのだけど」
車で走ってると窓の外に知り合いがいるような錯覚がしたりする。だから窓の外を行き交う人たちをいつもじっと見てる。
「冬になると夏を想像できるんだけどね」
と。海沿いじゃないのに、海沿いみたいな建物が並ぶ街。ひどい。
ちょうどデジタル時計は午後3時をさしてる。ラジオも狂喜乱舞じみた CM のあと少しだけ落ち着き、3時ちょうどを知らせる音を鳴らしはじめる。ウインカーがリズムを刻む。シートに深く潜り込む。
車を走らせるには良い天気、良い時間帯、良い状態だなと思った。これ以上暑くても、涼しくてもよくない。そして、僕らは、ビル群を抜ける。
公園にいた時に比べたらだいぶ傾いてしまった太陽の光が、空気中に大きな波を作り、光線となって窓の外に無数に広がるコンクリートや鉄に切り刻まれながら不規則に車内に入り込んでくる。
酩酊。
そのうち首都高に入る。進めば進むほど、スピードとは関係なく確実に時間は経過し、その証拠にどんどん陽は傾いて行く。
車が揺れると、バックシートに積んだたくさんの荷物、大きなバックパック、TV、冷蔵庫、段ボール箱、それらが、軋んだり、ずれたりする。
記憶の後ろに広がるからっぽのアパートに差し込む西日を想像した。
鮮やかなオレンジに黒い影が落ちる。徐々に黒がオレンジを蝕み、そのうち完全に支配する。月明かりは黒の使い。
そこから連想するんだ。
はるか遠い国、知らない名前の街。小さなアパート。3階あたり。そこには売れないけれど素敵な作品を生み続ける画家が住んでたら良い。夏でもコートで、彼のまわりだけ枯れ葉舞う秋の気配が漂う。街の人たちには煙たがられてるけど、とある政治家だけが彼の才能を買ってるのだ。けど彼は決して政治家には絵を売らない。サングラスをかけたまま灰色の空の下、公園でずっと好きな絵を描くんだ。もっともっと遠い国の青い海と空、それを見てるかつての恋人を想像して。夜は静かにレコードを聞きながらインスタントコーヒーにたっぷりの砂糖とミルク、それにウォッカを注いで、覚醒と酩酊を繰り返す。そして彼は、次第に古びた堅いベッドの上で子供みたいに丸くくるまって、次に来る冬を想像しながら眠る。
彼の意識を通して次に来る冬を想像できた気がした。
スピードは加速して行く。
これからどこに行くの。
そのまま車はゆるやかなカーブをゆっくり旋回する。


